登録年月日:1933.01.23
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福山城跡を中心に、市民の憩いの場として豊かな緑が残る福山城公園。見どころはやはり、江戸幕府を開いた将軍・徳川家康も住んでいた京都の伏見城から移築された「伏見櫓」です。 この城は、初代藩主の水野勝成が当地に赴任した際に、西日本の守りを固めるために建てました。 築城時には伏見櫓を拝領したほか多額の金銀の貸し出しも受けており、幕府の勝成に対する信頼の厚さが伺えます。
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解説
国の重要文化財に指定されている伏見櫓は、福山城着工前年の1619年に廃城となった、京都の伏見城から移築されたものです。伏見城は豊臣秀吉や徳川家康といった天下人が住んでいた城です。
櫓(やぐら)とはもともと城の防御や見張りのための建物で、武具や日用品などを入れる倉庫としても使用されていました。伏見櫓は三重三階の大型櫓で、小さな城では天守に匹敵する高い格式の建物です。
太平洋戦争終戦直前の福山空襲によって、天守をはじめ城内の多くの建物が焼失しましたが、筋鉄御門(すじがねごもん)と共に被害を免れました。1954年には解体修理が行われ、その際に二階の梁に、伏見城からの移築であることを証明する「松ノ丸ノ東やくら」という刻銘が発見されました。日本全国に伏見城からの移築だと伝わる建物が存在していますが、確実な証拠が見つかっているものはほかにありません。
移築前の建築年代は1598年から1602年ごろと言われており、日本に現存する三重櫓の中でも最も古いクラスだと言えます。
国の重要文化財に指定されている筋鉄御門は、福山城本丸の正門です。1620年から22年にかけて福山城を築城する際、隣接する重要文化財・伏見櫓(ふしみやぐら)とともに、京都の伏見城から移築されたという説があります。しかし伏見櫓と違い、移築を示す確かな証拠は見つかっていません。
門を挟むように石垣があり、2階部分にそれらをまたぐように櫓を設けた典型的な櫓門です。櫓門は攻め込んできた敵を、門の上部から鉄砲などで攻撃できる、堅固な守りの門。扉に細い鉄板を貼ることで防御力をさらに向上させており、その鉄板が名前の由来となっています。
壁面には装飾と補強の役割がある水平の木材・長押型(なげしがた)が付けられ、防火剤の白漆喰が全体に塗られた白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)で、伏見櫓と意匠が共通しています。
2階部分の柱や梁、束には、ほかの建物で使われた形跡がある転用材を多く使用しています。近隣にあったと伝わる神辺城や鞆城の部材を転用して築かれた可能性も指摘されています。
福山城は、福山藩初代藩主の水野勝成(かつなり)が当地に赴任した際、西日本の守りを固めるために建てた城です。
水野勝成は徳川家康の母・於大(おだい)の方の弟・忠重(ただしげ)の嫡男。つまり家康のいとこです。大将として戦場に出ても、真っ先に敵陣に切り込んでいくような勇猛な人物でした。その武勇を見込まれ、外様大名が多い西日本で、反乱が起きないよう守りを固める重要な役割を任されました。
天守は一階部分と五階部分の大きさの差が、最も小さい作りです。1階を小さくして建築費用を抑えながら遠くから見た時に目立つよう、当時の最新工法で最上階が大きく作られました。
国宝指定を受けていた天守を始め、多くの建物が太平洋戦争末期の1945年8月に空襲で焼失しましたが、1966年から73年にかけて天守や御湯殿(おゆどの)、月見櫓、鏡櫓が再建されました。再建された天守は、福山市の歴史を今に伝える博物館として活用されています。
登録有形文化財・福寿会館は、安部和助氏が1935年から37年ごろにかけて別荘として建築しました。安部氏は魚のダシを手軽にとるための加工品・削り節を開発して財を成した人物で、「鰹節王」の異名を持ちます。それ以前、この場所には隣接する福山城の米を貯蔵する蔵が建っていました。
和風建築の本館や茶室等に加えて2階建ての洋館も建っています。洋館にはヴェネチアルネッサンス風疑似窓装飾や柱の装飾が施されており、昭和初期の洋式建築の特徴がよく表れています。
第二次世界大戦後はGHQに接収されていましたが、福山市出身の実業家・渋谷昇氏が買い上げて市に寄贈しました。
市は結婚式場や貸会場、市の迎賓館、事務室などとして活用。現在でも和風建築の建物は、茶会や和楽器などの習い事、呉服や茶道具の展示会などに利用されています。
また洋館は2階が貸会議室、1階が喫茶店となっており、庭園を眺めながら過ごせる憩いの場として親しまれています。
文化財情報
【時間】
福山城博物館:6:00-22:00
【定休日】
月曜日(祝日の場合は翌日)、年末12月28日-12月31日 ※2022年8月初旬ごろまで、リニューアルおよび耐震工事のため長期休館中
【料金】
再開後の入館料は未定
【外部リンク】